洗玉橋(一連式アーチ型)

明治23(1890)年、上陽町を襲った3度の大洪水により星野川に架かった木造りの橋は全て流されてしまいました。「大洪水でも流されない石造りの橋を造ってほしい」との住民からの強い要望があり、当時のアーチ型石橋造りの名匠、肥後の「橋本勘五郎」が彼の息子や孫、そして「萩本卯作」といった弟子達「種山石工集団」を引き連れ八女の地へ。その経験と技術が注ぎ込まれ、明治26(1893)年5月に架橋されました。


橋本勘五郎は、熊本県の国指定重要文化財である「通潤橋」をはじめ、明治政府に招かれ、「万世橋」、「浅草橋」、「江戸橋」、「京橋」などもてがけています。洗玉橋のアーチ頂上付近にある要石には、「通潤橋」と「兄弟橋」であることが刻銘されています。